ひとひろ

日常より、もう少し深いところへ。ひびのこと、たびのこと、ならのことを綴ります。

ひとひろ

*はじめてのツーリング

泣きながら取った運転免許は、あっさり高額な身分証明書と化した。
会社の車を傷つけてからはハンドルを握ることもなくなり、気づけばペーパーゴールドドライバーに。
公共交通機関と徒歩、ごくたまに自転車。
それでもどこへだって行けるし、満足だって思ってた。

夫が今日、そんな私をひとときで新しい世界に連れて行ってくれた。
ペーパードライバーは、はじめて助手席ではなく、ライダーの後ろに乗った。
もともとバイクが好きで、結婚前にはよく乗っていたという夫。いつか後ろに乗ってみたいなと言いながらも、怖さがまさる。

秋晴れのよき日に、その「いつか」はやってきた。
迎えに来てくれたのは、想像よりは大きめな夫の愛車。大きな音が苦手だったけれど、結婚してから少しずつ、バイクのエンジン音は嫌じゃなくなった。
ペーパードライバーは、何もしないのに一丁前にライダースを着て出迎える。ヘルメットを被ったら、アンバランスなゆるキャラみたいになったけれど。
足をかけて、またがる。
思っていたよりも目線は高かった。
乗馬をしたときの感覚に似た、コントロールできない怖さ。シートベルトもなく、自分でしっかり肩を、バイクを、掴むしかない。
そんなに緊張しなくていいよと笑われながら、ライダーの後ろにおさまった。

エンジンがうなりをあげる。振動、と思ったときには視界は滑りだしていた。
いつもの道を見たことのない高さから臨む違和感。
信号をひとつ越えるまでは、全身にぎゅっと力が入っていた。ひとつ越えたら、ちょっとだけ力を抜けた。
身体のあちこちが風にさらされる。走るのによい季節は限られているとはこういうことかと身をもって知った。

バイクは市街地をぐんぐんと走って、あっという間に隣の市へ。
当たり前だけれど車と同じように早くて、公共交通機関の民には時間の流れ方が新鮮だった。
気づけばひとつ目の目的地に到着する。
そのときにはもう、楽しいなと思いはじめていた。

一時間ほど過ごして、再びバイクに乗って次の目的地へ。
今度は市街地を抜けて、山の方へ。
ふと思い出すのは、嫌々通った教習所での山道教習。
卒業ぎりぎりまで自動車学校に通っていたので、二月の山道教習の日は、奈良市内に何年ぶりかの降雪があった日だった。
その時の教習ルートを、バイクで二人のぼってゆく。

お天気がいいからか、何台ものバイクとすれ違った。
ふと向こう側から来たバイクに手を振られる。しかも別の人からも連続するように、二回目。あれ、私たち? 私に振ってる?
ペーパードライバーは、ドライバー特有の非言語文化がどうしても分からない。 ありがとうのハザードとか、パッシングとか、習っていないよといつも思う。
だから今回もそれかと思って身構えた。
「手を振り返したらいいんやで」 と夫は笑う。どうやらあれは挨拶らしい。
勢いのままに無視してしまった……!
落ち込む私に気にすることはないよと夫が励ましてくれる。楽しんできてねってことだよ、と。
ライダー、なんていい人なんだ!
次にそんなことがあったら振り返すぞと意気込んだけれど、カーブが多くてなかなか機会に恵まれなかった。

バイクはどんどん山をのぼり、カーブを曲がってゆく。
高度が上がったからか、空気がすこし冷たくなる。風が強い。
あれ、空気がおいしい。空が青くて綺麗、木漏れ日がいい感じ。
車だと見られない部分の空が見られるのが、とってもいい。
「あのね、前歯が乾く」「口閉じといて」なんて、どうでもいい会話を交わす。でも私はずっと、めちゃくちゃ笑顔だったから、口をしっかり閉じていられなかった。
なにこれ、楽しい。
多分バイクを操る夫の方が風になっているのだろうけれど、私もちょっとだけ風だ。ちょっと飛んでる気もする。

折り返して、下り坂。
今度はあなたが手を振る番だよと言われたけど、照れくさくてどうにもだめだった。
夫の両肩に手を載せていたら、手を振ろうとしているのがばれるから途中で片手をおろした。それでも実は振れなかった。
さっきすれ違った人、めちゃくちゃ笑顔だったよと教えてもらって、救われる。
手は振れなかったけれど、楽しいよね楽しんできてねの気持ちは伝えられた、気がする。

山から市街地を臨むルートは、景色がよい。
山道教習のときもおじいちゃん教官に「見てください眺めがいいですよ〜」と言われたけど「無理です!」って返したことを思い出す。
自分の運転では二度と来られなかったかれど、今その眺めのよさ、気持ちよさを感じられた。

旅は、あっという間に終わってしまう。
少しだけ延長線でいつもの散歩コースをぐるりと走り、家についた。
時間にしたらほんの数時間の旅だったけれど、私の心は弾んでいた。
怖さはまだあるけれど、また乗せてね!ってお願いして、旅を終える。
新しいことをするのはいつも恐ろしいし不安がまさるけれど、終わったときには高揚感がやってくる。
知ってはいるはずなのに最近の私は守りに入っていた。

また二人で、どこへだって行ってみたい。
次こそは手を振り返したいし、私から振ってみたい。
きっと次回も、前歯は乾いてしまうのだろう。
バイクで走ると気持ちがよくて、にっこり笑ってしまうから。